平安時代中期~後期の名高い陰陽師・安倍晴明の末裔として代々朝廷に仕え、日本の暦の制定を行うなど、全国の陰陽師の中心として栄えてきた陰陽道宗家。江戸時代には天保3年(1683年)、土御門泰福が陰陽師頭になった時に全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握。泰福により独自の神道理論が打ち立てられ土御門神道が開始され、幕末には土御門家の陰陽道組織化が始まり全国に広まりました。しかし、明治維新の近代化推進で暦を西洋暦に合わせるため、明治3年(1870年)陰陽寮が廃止となり、明治5年(1872年)には陰陽道が迷信として禁止されました。その後土御門家は子爵に任じられ、貴族院議員として政治の道を歩むことに。土御門家の執事をしていた田邉寅三郎は大日本陰陽会(現公益社団法人日本易学連合会)副総裁であった土御門凞光(旧姓三室戸)の下で陰陽道、易占の振興に尽力しました。大日本陰陽会の総裁は凞光の従兄弟になる伊勢神宮大宮司の三室戸正光の要継子敬光。昭和17年(1942年)4月、伊勢神宮大宮司であった三室戸家の後ろだてにより、「土御門神道同門会」が結成され、当時の土御門子爵家当主、土御門凞光が総裁、倉橋泰隆が会長となりました。
田邉虎三郎は昭和19年(1944年)4月に「土御門神道同門会」の副会長に就任しています。